watashiとワタシ

こじらせアラフォー、ひたすらジブンを掘る。

現実を見るな自分を見ろ

今までだったら、こんな結果を出せていない自分、何も持っていないような気がする

現実、何も変わっていない現実、むしろ悪くなっているような気すらする現実にうんざりしたりがっかりしたり焦ったりして・・現実を変えようと、行動して変わったような気になって、満足して、結局自分の奥の奥にある声を聴かないまま現実がとりあえずいい感じであることに安心して、そこに甘えてすがって。

だから現実がうまくいかなくなると、そこにすがりだす。人の反応、状況にいちいちやきもきして、気にしてずーっと携帯ばっかり見て疲れて、あー私何やってんだろうって。流されて流されて時代がこうだから、時代の最先端にいるすごい人たちがこう言ってるから、そこを選んだのは自分。自分だけど、こう言うからこうするって自分で調べたり自分の心に聞いて納得して、そこに進むのは良い。

だけどそれすら忘れてあの人がこう言ってたからこうしたのに、なんか何にも残らない、あれはなんだったろうって途方に暮れそうな気がする。

今これに気づけた自分がすごくうれしい。時代の流れより、みんなの流れより、何よりも気にすべきこと。私の気持ち、声。

私の気持ちがホット安心すること、安堵すること、リラックスすること、上がること。

それがすべての真実。わたしの真実。全ては私の今の気持ちが心地良い状態であることに重きを置く。それが何よりの最優先事項。今見えてる現実がいくら人から見て良い方向に進んでいなくても、置いてけぼりになっていたとしても。

私がいま気にすべきは自分今この瞬間気持ちいい、居心地がいいと思えているか。

何を感じているか不快に感じていることはないか。もし感じているなら何に?どうしてそう思うのか。いやな気持ちがあっても無理にいい方向に変えなくていい。いやだやめたいは自分の中の望みを出すチャンスだから。どうしてそう思うの?じゃあどうしたいの?何だったら一番うれしい?テンションあがる?

ひたすら自分と会話し、問う。真実はいつだって私の中にある。外に求めても、それはただの他人のデータ。それを参考にするのもいい。

でもしれは真実ではない。その人にとっての真実なだけ。

怖いとき、不安なとき、独りだと押しつぶされそうなときほど、私は私に聞く

じゃどんな現実だったら最高?うれしい?あなたはどこに行きたいの?

まずは私の気持ちが整うこと。見ること。微調整を毎日毎瞬する。現実はその心の世界を映す答え合わせみたいなこと。あとからかならずわかる。あぁ私を信じて私の声に従ってきてよかった。私の魂はここに連れてきたかったんだって。

私は理想の景色をみて思う。丘のうえ。緑と海。大好きな人が隣で手をつないでいる。

青空。気持ちい風。それらを一緒に感じている。

大好きな街で大好きな人たちと私は暮らしている人生。

ここに来たかった。私の豊かさはどんどん生まれ、循環し、大きくなっていく。

手にしたものはなくなるものではない、私の中で産み出すもの。

無くなるものは偽物。どんどん増幅するもの、広がるものは産み出されていくものは

私の真実。

 

ソースエネルギーと一体でいると唯一無二の輝きを放つ存在になる

孤高の光、だけど人の目を一瞬にして奪い、釘付けにする光。

私はこんな存在でありたい。

元からこんな存在であることを自分で許容する。認める。私はもうこんな存在なのだと。もっと呼吸しよう、もっと自分のエネルギーを感じよう。無限で何も不可能なことはないこの強靭な拡大のパワーを感じると私が私でなくなるような怖さがあったけど、その逆。私は私に戻っていく。思い通りになる世界が当たり前にある世界。

現実は少し前に自分が創造した気持ちの現象化。気持ちの答え合わせ。

ただ、私の中にある声に応え続ける。それが私の真実。